Share

第6話 今日から私は、水瀬結衣です

last update publish date: 2026-09-14 09:00:25

第6話 今日から私は、水瀬結衣です

 入学式の朝、結月は午前五時四十二分に目を覚ました。

 目覚ましが鳴る十八分前だった。

 普段なら、予定の早い公務がある日でも、目覚ましよりこれほど早く起きることはない。昨夜なかなか寝つけなかったせいで、むしろ寝不足のはずなのに、目を開いた瞬間から頭だけは妙に冴えていた。

 今日は大学へ行く。

 見学でもなければ、訓練でもない。

 水瀬結衣として、本当に大学生になる日だった。

「……とうとうですね」

 ベッドの中で呟いた途端、頬が緩んだ。

 天井を見つめながら、もう一度心の中で繰り返す。

 大学生。

 今日から自分も大学生。

 漫画やライトノベルの中で何百回と目にしてきた言葉なのに、自分へ当てはめると、それだけで胸の奥が落ち着かなくなる。

 結月は掛け布団を跳ね上げた。

 その勢いのままベッドを降り、洗面台へ向かう。

 途中で、ふと立ち止まった。

「落ち着きましょう」

 誰も見ていないのに、自分へ言い聞かせる。

 十九歳にもなって、大学へ行くだけで早朝から走り出しそうになっている場合ではない。

 今日は特に目立ってはいけないのだ。

 普通に。

 とにかく普通に。

 それが今日の最大の目標である。

 ところが朝食の席へ着いた時点で、すでに家族からは普通ではないと判断されたらしい。

「姉上、朝から顔がうるさい」

 向かいに座っていた弟の直希が、トーストをかじりながら言った。

 結月は眉を寄せる。

「顔がうるさいとは、どういう意味ですか」

「何も言ってないのに『楽しみです』って顔に書いてある」

「書いてありません」

「いや、書いてあるよ。三日前くらいから」

「直希」

「昨日なんて廊下ですれ違ったとき、鼻歌歌ってたじゃん」

 結月の手が止まった。

「……本当ですか」

「自覚なかったの?」

 なかった。

 それはかなり恥ずかしい。

「何を歌っていたのでしょう」

「そこ気にするんだ」

「重要でしょう」

「知らないよ。聞いたことない曲だったし」

 直希は笑いながら牛乳を飲んだ。

「でもさ、本当に今日からなんだな」

「はい」

「水瀬結衣さん」

 わざとらしく呼ばれ、結月は一瞬だけ背筋を伸ばした。

「……何ですか」

「いや、反応するんだなと思って」

「今日からその名前で生活するのですから、当然でしょう」

「慣れるまで絶対変だよ」

「あなたに心配されなくても大丈夫です」

「名前呼ばれて三秒後に振り向くとかやめてよ。怪しすぎるから」

「そこまで間は空きません」

「じゃあ試す?」

 直希が急に視線を逸らした。

「結衣」

「はい」

 反射的に返事をしてしまった。

 直希が吹き出す。

「早っ」

「何がおかしいのですか」

「完璧じゃん。もう結衣でいいじゃん」

「遊ばないでください」

 結月は少しむっとしながら紅茶へ手を伸ばした。

 父の雅久は新聞から目を上げ、二人のやり取りを眺めていたが、しばらくして静かに口を開いた。

「結月」

「はい」

「今日から大学へ通う以上、あちらでは私たちがすぐ助けてやれるとは限らない」

 空気が少し変わった。

 結月はカップを置く。

「分かっています」

「困ったときは黒川たちに連絡しなさい。だが、何でも警護側に解決してもらおうとはするな」

「はい」

「友人との問題も、自分で向き合うこと」

「はい」

「それから——」

「あなた」

 母の遥子が笑った。

「朝からそんな顔をして送り出したら、結月が入学式ではなく戦場へ行くみたいでしょう」

「大事なことだ」

「分かっています。でも、今日はもう少し普通の父親らしい言葉をかけたら?」

「普通の父親らしい言葉とは何だ」

「それを私に聞く時点で駄目ね」

 遥子が肩をすくめる。

 雅久は少し黙り込んだ。

 それから新聞を畳み、結月を見る。

「……楽しんできなさい」

 あまりに短かった。

 それでも、結月には十分だった。

「はい」

 今度は少しだけ笑って答える。

「行ってまいります」

「姉上」

 直希が口を挟む。

「大学でいきなり彼氏作ってくるとかやめてよ」

「なぜ朝からその話をするのですか」

「だって姉上、青春ラブコメしに行くんでしょ?」

「学問をしに行きます」

「父上と同じこと言ってる」

「当然です」

「顔赤いけど」

「直希」

「はい」

「帰宅後、新刊の保管場所を変更します」

「ごめんなさい」

 謝罪だけは異様に早かった。

     ◇

 午前八時十二分。

 結月は宮邸を出た。

 ただし、正門から公用車で堂々と出発するわけではない。

 大学生活用の移動手順に従い、途中までは車を使い、そこから先は電車へ乗る。

 今日の服装は、薄いクリーム色のブラウスに淡いブルーのカーディガン、膝下まであるスカート。靴は歩きやすいローファーにした。

 鏡の前で何度も確認した。

 派手ではない。

 高価そうにも見えない。

 ただし黒川沙耶には、

「普通ですが、やはり妙に育ちがよく見えます」

 と言われた。

 もうそれについては諦めた。

 大学には育ちの良い学生だっている。

 そういう人間だと思ってもらえばよい。

 駅へ入り、改札を抜ける。

 今日は前回の訓練とは違う。

 周囲にいる警護員の人数も多いはずだが、結月には分からない。

 黒川も朝、短く言っただけだった。

「大学構内では、原則として私たちから話しかけません。何か問題が起きた場合だけ対応します」

 だから今日、結月は本当に水瀬結衣として大学へ入る。

 電車の窓に映る自分を見る。

 黒縁の眼鏡。

 いつもより柔らかく整えた髪。

 見慣れてきたようで、まだ少しだけ他人に見える。

「水瀬結衣」

 口の中だけで言ってみる。

 今日から。

 それが自分の名前だ。

     ◇

 大学の最寄り駅を出た瞬間、結月は圧倒された。

 人が多い。

 とにかく若者が多い。

 新しいスーツを着た新入生らしい学生。

 その家族。

 案内板を持つ大学職員。

 サークル勧誘のために集まった上級生。

 校門へ向かう道の両側には桜が咲き始めており、風が吹くたびに花びらが何枚か舞っている。

「……すごい」

 思わず声が漏れた。

 写真では見た。

 事前確認でも一度来た。

 けれど今日の大学は、まるで別の場所だった。

 人がいる。

 声がある。

 あちこちで笑っている。

「写真撮ろうよ!」

「ねえ、入学式終わったらどこ行く?」

「サークルもう決めた?」

「全然。とりあえず新歓いっぱい行こうと思ってる」

 周囲から聞こえてくる会話の一つ一つが、結月には眩しかった。

 自分と同じ十九歳前後の人々が、当たり前のようにこれからの大学生活について話している。

 そこへ自分も混ざる。

 本当に。

 胸の中が熱くなった。

 しかし、ぼんやりしている場合ではない。

 校門へ近づいた瞬間。

「新入生ですかー!」

 突然、横から大きな声が飛んできた。

 結月の肩が跳ねる。

「はいっ」

 反射的に返事をすると、明るい髪色の女子学生が満面の笑顔で近づいてきた。

「テニスサークル興味ない? 初心者大歓迎! 新歓だけでも来てね!」

 チラシを差し出される。

 結月は両手で受け取った。

「ありがとうございます」

「よろしくねー!」

 女子学生は次の新入生へ走っていった。

 結月はチラシを見る。

 初めてだ。

 サークル勧誘。

「これが……」

 感動しかけたところへ。

「新入生? 軽音どう?」

 別の学生が来た。

「ありがとうございます」

「映画研究会でーす!」

「ありがとうございます」

「ボランティアサークル興味ありませんか?」

「ありがとうございます」

「フットサルどうですか!」

「ありがとうございます」

 断れなかった。

 声をかけられるたび、全部受け取った。

 五分後。

 結月の両手には、二十枚近いチラシがあった。

「……これは」

 困った。

 そもそも入りたいサークルはある程度考えていた。

 文化系。

 できれば漫画や物語に近い活動。

 だが、せっかく声をかけてもらったのに断るのは失礼な気がする。

「お姉さん、新入生?」

 また来た。

 今度は男子学生だった。

「はい」

「旅行サークルなんだけど興味ある?」

「旅行……」

 魅力的な言葉だった。

 友人と旅行。

 青春イベント百選にも入っている。

「少しあります」

「じゃあこれ! 今日新歓あるから来てよ」

「ありがとうございます」

「名前なんていうの?」

 突然だった。

 結月の心臓が跳ねる。

 訓練した。

 何度も。

 大丈夫。

「水瀬結衣です」

「結衣ちゃんね。俺、三年の杉本。よろしく」

「よろしくお願いいたします」

 言ってから気づく。

 丁寧すぎた。

 杉本は少し笑った。

「めっちゃ礼儀正しいね」

「す、すみません」

「いや、謝らなくていいって。真面目なんだ?」

「そのように言われることはあります」

「そのように」

 また笑われた。

 嫌な感じではない。

「面白い子だね。じゃあ、新歓来られそうだったら連絡して」

 チラシには連絡用のアカウントが書いてある。

「はい。ありがとうございます」

 男子学生が去る。

 結月はその背中を見送りながら、胸を撫で下ろした。

 初対面の男子大学生と話した。

 数分前まで名前も知らなかった相手と。

 しかも、相手は自分が誰か知らない。

「……できました」

 小さく呟いた。

「何が?」

 すぐ横から声がした。

 結月は飛び上がりそうになった。

 振り向く。

 知らない女子学生が立っていた。

 同じ新入生らしい。

 肩までの茶色い髪に、明るい色のスーツ。手には結月と同じくらい大量のチラシを抱えている。

「すみません。独り言です」

「あ、びっくりさせた? ごめんね」

「いえ」

 女子学生は結月の手元を見る。

「そっちもすごいね」

「何がでしょう」

「チラシ」

「ああ」

「断れないタイプ?」

 結月は答えに詰まった。

「せっかく渡してくださっているので」

「やっぱり」

 女子学生が笑った。

「私も最初そうしてたんだけど、これ全部行ってたら大学卒業するまで新歓終わらないよ」

「そんなに?」

「冗談、冗談」

 言われてから気づく。

 結月は少し恥ずかしくなった。

「すみません」

「なんで謝るの?」

「少し真に受けてしまいました」

「え、可愛い」

「かわ——」

 今度は別の意味で固まった。

 女子学生は楽しそうに笑う。

「ごめん、変な意味じゃなくて。なんかすごい素直だなと思って」

「よく、世間知らずだとは言われます」

「あ、それ自分で言うんだ」

「最近知りました」

「最近?」

「……いえ」

 危ない。

 余計なことを言うところだった。

 女子学生は気にしていないようだった。

「私、佐倉美月。文学部。そっちは?」

 結月は一瞬だけ息を止めた。

 これだ。

 自己紹介。

 訓練ではない。

 台本もない。

 本当に、今日初めて会った同級生との会話。

「水瀬結衣です。私も文学部です」

「え、本当?」

「はい」

「じゃあ同じじゃん。よろしく、結衣ちゃん」

 結衣ちゃん。

 その呼び方が、胸に落ちた。

 誰かが自分をそう呼んだ。

 役目としてではなく。

 訓練でもなく。

 ごく普通に。

「……はい」

「ん?」

「よろしくね、美月ちゃん」

 少しぎこちなかった。

 それでも言えた。

 美月の表情が明るくなる。

「よし。同じ学部で知り合い一人確保」

「確保?」

「だって知り合いゼロで来たから不安だったんだよね。結衣ちゃんは?」

「私もです」

「友達いない?」

「……はい」

「そんな堂々と言わなくても」

「事実ですので」

 美月が吹き出した。

「結衣ちゃん、なんか面白いね」

 今日、二度目だった。

 面白いと言われた。

 自分はそんなに面白い人間なのだろうか。

「悪い意味でしょうか」

「全然。なんていうか、真面目なんだけどずれてる感じ」

「ずれている」

「あ、ごめん。嫌だった?」

「いいえ。最近、家族にも似たようなことを言われます」

「家族にも?」

「はい」

「じゃあ公認なんだ」

「何の公認でしょう」

 また笑われた。

 でも。

 不思議と嫌ではない。

 むしろ、もっと話したかった。

 こんなふうに、どうでもいいことを。

 正解のない話を。

「入学式の会場、一緒に行く?」

 美月が尋ねた。

 結月は一瞬、言葉を失った。

 一緒に。

 それはつまり。

 入学式へ、一緒に行く相手ができたということだ。

 今日会ったばかりなのに。

「はい」

 声が少し弾んだ。

「ぜひ」

「『ぜひ』って」

「また硬かったですか」

「ちょっと。でもまあ、それも結衣ちゃんっぽいか」

 美月は笑いながら歩き出した。

「ほら、行こう。遅れたら入学初日から最悪だよ」

「はい」

 結月も隣へ並ぶ。

 二人で歩く。

 ただそれだけだった。

 でも結月は、胸の奥で何かが一つ、静かに満たされていくのを感じていた。

     ◇

 入学式そのものは、結月にとって意外なほど普通だった。

 式辞。

 大学歌。

 新入生代表の挨拶。

 整然と並ぶ椅子。

 長い話。

 途中で少し眠そうにしている学生。

 隣に座る美月が、小さく欠伸を噛み殺している。

 結月も一瞬だけ眠くなった。

 それが、妙に嬉しい。

 式典にはこれまで数え切れないほど出席してきた。

 けれど今日、自分は来賓ではない。

 壇上に近い席でもない。

 紹介されない。

 カメラも自分だけを追わない。

 何百人もいる新入生の一人として座っている。

 誰も自分へ注目しない。

 こんなに安心できるものなのか、と驚いた。

 式が終わった瞬間、美月が大きく息を吐いた。

「終わったー。長かった」

「声が大きいです」

「もう外だから大丈夫」

「そういうものですか」

「そういうもの。結衣ちゃん、真面目すぎ」

「式典ですから」

「でも途中ちょっと眠そうだったよ」

 結月は固まった。

「見ていたのですか」

「隣だもん」

「眠ってはいません」

「分かってる。必死で目開けてた」

「……忘れてください」

「無理」

 美月が楽しそうに笑う。

 結月は少し恥ずかしくなった。

 こんな些細な失敗を誰かに見られ、からかわれる。

 母が言っていたのは、こういうことなのかもしれない。

「このあとどうする?」

 美月が聞いた。

「学部の説明があります」

「それ終わったら」

「帰宅する予定ですが」

「えー、真面目。せっかくだし学食見ていかない?」

 結月の足が止まりかけた。

 学食。

 青春イベント百選、その二番。

『友達と学食で昼食を食べる』

 まだ今日会ったばかりだ。

 友達と呼んでいいのか分からない。

 でも。

「行きたいです」

 少し食い気味になった。

 美月が笑う。

「そんな行きたい?」

「はい」

「学食だよ?」

「学食です」

「何その会話」

 また笑われる。

「じゃあ行こう。私も大学の学食、一回行ってみたかったんだ」

「本当ですか」

「そりゃ新入生だし」

 同じだ。

 この子も初めてなのだ。

 全部知っている人に案内してもらうのではなく、初めて同士で行ける。

 それが嬉しかった。

 美月と並んで歩きながら、結月はトートバッグの中の紺色の小さな手帳を思い出した。

 本物の「青春イベント百選」のノートは宮邸へ置いてあるが、大学用に一部だけ写した小型版を忍ばせている。

 今日帰ったら。

『一、大学で友達を作る』

 その横へ丸をつけてもいいだろうか。

 いや。

 まだ早いかもしれない。

 友達というものは、今日会って一時間で決まるものなのだろうか。

 その疑問を、美月本人に聞くわけにもいかない。

「結衣ちゃん?」

「はい」

「また考え込んでる」

「少し」

「ほんと分かりやすいね」

「そうでしょうか」

「顔に出るタイプなんじゃない?」

 黒川にも同じことを言われた。

「直したほうがよいでしょうか」

「なんで?」

「いろいろ知られそうなので」

 正体まで。

 そこは口にできない。

 美月は少し考えてから言った。

「別にいいんじゃない? 分かりやすいほうが付き合いやすいし」

 結月は目を瞬いた。

「そういうものですか」

「少なくとも私はね。何考えてるか全然分かんない人より楽」

「……なるほど」

「また勉強してる顔してる」

「していません」

「してるって」

 二人で笑いながら歩く。

 そのとき。

 前方から大きな声が飛んできた。

「新入生のみなさーん! こちら、映像文化研究会です!」

 結月の顔が上がった。

 映像文化。

 少し興味がある。

 そして、その向こうには別の看板も見えた。

『創作文化研究会』

 結月の足が止まる。

 漫画。

 小説。

 創作。

 もしかしたら。

「美月ちゃん」

「ん?」

「少しだけ、あちらを見てもよいでしょうか」

「いいよ。サークル?」

「はい」

「漫画とか好き?」

 結月は一瞬迷ったあと。

「大好きです」

 今度は隠さずに答えた。

「ほんと? 私も読むよ」

「本当ですか?」

「恋愛ものとかめっちゃ好き」

 結月の目が輝いた。

「どのような関係性がお好きですか」

「関係性?」

「幼なじみ、先輩後輩、犬猿の仲から始まる恋、身分差、秘密を共有する関係など」

「待って。急にすごい来た」

「すみません」

「いや、いいけど。結衣ちゃん、漫画の話になると人格変わるね」

「変わっていません」

「絶対変わってる」

 美月が笑う。

「じゃあ学食行ったあと、一緒にサークル見ようよ」

「はい」

 即答した。

 結月はこの時点で、今日という日は十分すぎるほど素晴らしい一日になったと思っていた。

 大学へ来た。

 同級生と知り合った。

 名前で呼ばれた。

 学食へ行く約束をした。

 漫画の話までできた。

 もう、これ以上の出来事など起きなくてもいい。

 そう思った。

 だからこそ。

 大学構内の説明を終え、美月と一旦別れ、指定された場所へ資料を取りに行く途中で。

 結月は少しだけ気が緩んでいた。

 手元のキャンパスマップを見ながら歩いていた。

 そして。

「ここを右へ……」

 角を曲がった瞬間。

「うわっ!」

 男性の声。

 何かがぶつかった。

「きゃっ——」

 結月の身体がよろめく。

 同時に。

 目の前を茶色い液体が大きく跳ねた。

 紙カップ。

 コーヒー。

 時間が、妙にゆっくりに見えた。

 次の瞬間。

 白いブラウスの胸元からスカートにかけて、見事なまでにコーヒーが降りかかった。

「…………」

「…………」

 結月は自分の服を見る。

 それから、目の前の青年を見る。

 黒い髪。

 ラフなパーカー。

 片手には、今しがた中身をほとんど失った紙カップ。

 青年もこちらを見ている。

 二人とも何も言えない。

 結月の頭の片隅に。

 昔読んだ青春ラブコメの一場面が浮かんだ。

 入学初日。

 曲がり角。

 偶然ぶつかる男女。

 運命の出会い。

 あった。

 本当にあった。

 ただし。

 想像していたものとは、かなり違った。

「……前」

 青年がようやく口を開いた。

 驚きと焦りで顔を引きつらせながら言う。

「前、見て歩けよ!」

 結月は目を見開いた。

 第一声がそれだった。

 謝罪ではない。

 微笑みでもない。

 もちろん、胸が高鳴るような甘い台詞でもない。

 結月が十九年間待ち望んでいたかもしれない「予定表にない男性との出会い」は。

 最悪の形で、予定通りではなく始まった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 『身分を隠して大学デビューした内親王ですが、普通の恋が難しすぎます!』   第35話 手をつなぐ理由がありません

    第35話 手をつなぐ理由がありません 結月は、自分が人混みを苦手としているつもりはなかった。 公務では大勢の人の前に立つこともあるし、式典や行事で人に囲まれることにも慣れている。警備に囲まれて移動する場面も多かったから、人の数そのものに圧倒されることはない。 ただし、それと「休日の駅で、一般の利用客に混ざって自分の足で歩くこと」は、まったく別の技術らしい。「水瀬、こっち」「分かっています」「いや、そっち行くと反対ホーム」「分かっていました」「今看板見たよな?」「確認しただけです」「はいはい」 土曜日の午後。 二人は、前回約束していた書店へ再び足を運んだ帰りだった。 今回は互いに選んだ本の感想を少し話し、さらに別の棚を見て回ったせいで、予定より長く滞在してしまった。結月には午後の予定がなかったため問題はないが、駅へ戻った頃にはちょうど人の多い時間帯になっている。 家族連れ。 買い物客。 学生。 観光客。 改札前を行き交う人の流れは絶えず、ほんの少し気を抜けば別の方向へ押し流されそうになる。「高瀬さん、皆さん歩くのが速くありませんか」「水瀬が遅いんだよ」「私は普通です」「さっきから三回立ち止まって看板見てる」「間違えないためです」「それで後ろ詰まってる」「……では、もう少し速く歩きます」「無理しなくていいって。俺についてくれば」「その言い方だと子供扱いされているように聞こえます」「じゃあ迷子にならないでください、お嬢様」「やはり子供扱いではあり

  • 『身分を隠して大学デビューした内親王ですが、普通の恋が難しすぎます!』   第34話 高瀬さんが選んだ一冊

    第34話 高瀬さんが選んだ一冊 誰か一人のために本を選ぶという行為が、これほど難しいものだとは思わなかった。 結月は日曜日の夜、自室の本棚の前に立ったまま、もう二十分近く同じ場所を行ったり来たりしていた。自分が読む本を選ぶのであれば、ここまで迷うことはない。表紙を見て気になったものを手に取ることもあれば、好きな作家の新刊を迷わず買うこともあるし、書評や友人の感想を参考にすることもある。 けれど、今回の条件はまったく違った。 高瀬湊に読んでもらいたい一冊。 そう考えた途端、目の前に並んでいる本がどれも決め手を欠いているように見えてしまう。「恋愛小説は……少し露骨でしょうか」 棚から一冊取り出した結月は、裏表紙のあらすじを読んでから、すぐに元へ戻した。 身分の違う男女が惹かれ合い、周囲の反対を受けながら関係を深めていく物語だった。普段なら好きな題材であるし、実際に何度も読み返している。 しかし、今これを湊に渡す勇気はない。 自分たちの状況を知っているのは結月だけだとしても、「なぜこの本を俺に?」と聞かれた瞬間にまともな顔を保てる自信がなかった。 次に手にしたのは、秘密を抱えた女性が身近な男性に少しずつ心を開いていく小説だった。「これはもっと駄目です」 即座に戻した。 秘密、偽名、言えない事情。 今の自分には近すぎる。 まるで、自分から高瀬湊へ「ここに答えがあります」と赤い線を引いて渡すようなものではないか。 結月は腕を組み、改めて本棚を見渡した。 そもそも、なぜ自分はここまで悩んでいるのだろう。 前の話で湊と交わしたのは、「次に出かけるなら、お互いに一冊ずつ本を選ぼう」という軽い約束だった。学校の課題でもなければ、贈答品の選定でもない。もっと気楽に考えてよいはずなのだ。

  • 『身分を隠して大学デビューした内親王ですが、普通の恋が難しすぎます!』   第33話 それでも二人でいると楽しいのです

    第33話 それでも二人でいると楽しいのです 初デートではなかった。 少なくとも、高瀬湊本人はそう言った。 もっと正確に言えば、「最初からデートだと決めて誘ったわけではない」という話であって、結月が完全な勘違いをしていたわけでもなかったらしい。しかも最後には、「次にまた二人で出かけるなら、最初からデートだと言って誘うかもしれない」とまで言われた。 そのため、昨夜から結月の中では評価が定まらないままだった。 失敗だったのかと言われれば、まったくそんなことはない。 楽しかった。 むしろ、かなり楽しかった。 書店へ行き、昼食を食べ、雑貨を見ただけである。恋愛小説なら一章分を使うほどの出来事ではないかもしれない。それでも自分にとっては、帰宅したあとまで何度も思い返してしまうくらいには大切な一日になっていた。「……結局、デートかどうかにこだわりすぎたのでしょうか」 月曜日の朝、結月は紺色のノートを閉じながら独り言を漏らした。 昨夜最後に書いた文章が、やけに素直だった。『デートかどうかより、高瀬さんと二人で過ごすこと自体が楽しい』『なら、次も行きたい』 読み返すと、少し恥ずかしい。 けれど消したいとは思わなかった。 その二行だけは、どう考えても本当だったからだ。     ◇ 大学へ着くと、美月はいつものように先に来ていた。「おはよう、結衣ちゃん。で、どうだった?」 挨拶の直後である。「何がでしょう」「土曜日」「もう少し世間話を挟んでもよいのではありませんか」「昨日の日曜日、聞くの我慢したんだから褒めてよ。メッセージしようか三回くらい迷ったんだよ」「

  • 『身分を隠して大学デビューした内親王ですが、普通の恋が難しすぎます!』   第32話 初デートではない、と高瀬さんは言いました

    第32話 初デートではない、と高瀬さんは言いました 「デートではない」と言われたあとに、その相手と二人きりで昼食へ向かう時間ほど、扱いに困るものはないのかもしれない。 結月は、その事実を身をもって学んでいた。 ほんの数分前まで、自分は休日の街を高瀬湊と並んで歩いているだけで楽しかった。大型書店では好きな本について話し、くだらないことで言い合い、いつもの大学とは少し違う服装を褒めてもらった。それだけで胸の奥がふわふわと落ち着かなくなり、もしかすると今日は、自分がこれまで漫画やライトノベルの中で何度も見てきた「初デート」に当たるのではないかと考えていた。 だから本人へ確認した。 父の「なぜ本人に確認しない」という、恋愛にはまるで似合わないほど合理的な助言を採用した結果だった。 そして返ってきたのが、『別に、そういうつもりじゃ』 である。「……」「……」 二人の間に、先ほどまでなかった沈黙が生まれていた。 湊は少し前を歩いている。 結月は半歩遅れて、その隣を歩いていた。 別に怒ってはいない。 少なくとも、怒る資格はない。 勝手にデートかもしれないと思ったのは自分だ。湊は最初から「本を見に行こう」としか言っていないし、「デートをしよう」と誘ったわけではない。 それなのに。 胸の奥には、薄い紙で指先を切ったときのような、小さいくせに無視しづらい痛みが残っていた。「水瀬」「はい」「さっきから静かじゃない?」「そうでしょうか」「そうだろ」「本を見たので少し疲れただけです」「一時間前まで、あのフロア全部見そうな勢いだったの

  • 『身分を隠して大学デビューした内親王ですが、普通の恋が難しすぎます!』   第31話 これはデートなのでしょうか

    第31話 これはデートなのでしょうか 水瀬結衣として大学へ通い始めてから、結月は数え切れないほど「初めて」を経験してきた。 初めて友人と学食で食事をした。 初めて大学生の男性と二人で昼食を取った。 初めてアルバイトをした。 初めて自分で得たお金で誰かに飲み物を奢った。 初めてプリクラを撮った。 初めて相合傘をした。 そのたびに緊張し、失敗し、思っていたものと違うと知り、それでも最後には「経験してよかった」と思ってきた。 だから今回も。 ただの新しい経験。 そう考えればよい。 はずだった。「……こちらでしょうか」 土曜日の朝。 結月は自室の姿見の前で、三着目のワンピースを身体へ当てていた。「いえ」 数秒考え。「少し気合いが入りすぎているような」 ベッドの上。 一着目。 二着目。 椅子の背。 候補から外したカーディガン。 机の上。 アクセサリーが二組。 普段の大学生活では考えられないほど、部屋が服で散らかっている。「……こちらのほうが自然でしょうか」 四着目。 薄い水色のブラウス。 白に近いベージュのロングスカート。「でも、大学でいつも着ているものとあまり変わりませんね」 それが良いのか。 悪いのか。 分からない。 結月はスマートフォンを見る。 昨夜。

  • 『身分を隠して大学デビューした内親王ですが、普通の恋が難しすぎます!』   第30話 これは恋ではありません、と言い切れなくなりました

    第30話 これは恋ではありません、と言い切れなくなりました 翌朝、結月は目を覚ますと、昨夜閉じたはずの紺色のノートをもう一度机の上へ置いた。 昨日、自分で書いた文章が気になって仕方がなかったからである。『高瀬さんも「分からない」』『私も「分からない」』『でも、二人とも相手が他の誰かと付き合うのは少し嫌』 そこまで書いてしまった。 しかも最後には、自分自身で「かなり分かりやすいのでは」とまで考えた。 朝になれば冷静になれるかもしれないと思ったのだが、残念ながら恋愛感情というものは一晩眠った程度では都合よく整理されてくれないらしい。「では、最初から確認しましょう」 誰に言うでもなく、結月は椅子へ座った。 机の上には、紺色のノート。 窓から差し込む朝の光。 そして、これから自分自身へ行う予定の、あまりにも個人的な検証。 公務なら資料の確認は得意だった。事実を並べ、状況を整理し、必要な結論を導く。曖昧な表現を避け、感情と事実を分けて考える。 ならば恋愛も同じように分析できるのではないか。 結月はそう考えた。 この時点で既に少し間違っていた。     ◇ 最初の記録。『昨日ぶつかった男。かなり失礼』 結月はその文章を見て、少し笑った。「これは間違っていませんね」 今でも失礼である。 そこは変わっていない。 さらにその下。『笑った顔は少しだけ悪くない』 結月は眉を寄せた。「……これは」 かなり初期。 まだ知り合って間もない頃。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status